サンエイサンキュー


写真提供:RACINGFIELDS.com

牝  芦毛  1989年04月07日生  北海道襟裳産
父  ダイナサンキュー    母  グロリーサクラ    父の父 ノーザンテースト  母の父  シーホーク


 



1994年10月下旬のある日。

遠く赴任地パラグアイで、いつものように、日系ホテルのロビーでスポーツ新聞をめくっていた私の眼に

小さな記事が眼に飛び込んできました。


「サンエイサンキュー死亡」


( あぁ、 とうとう。。。。。 )という、大きな落胆の気持ちでその記事を読みました。

胸が締め付けられる悲しみ。




サンエイサンキューという馬は、

私が1992年に出会った、レースで走る競走馬の魅力に取りつかれたミホノブルボンライスシャワーと同期の、

芦毛の牝馬です。

ピンク色のメンコがトレードマークの馬でした。


この年の同期牝馬は名馬が群れをなしていました。
 
天才少女ニシノフラワー、アイルランド産のシンコウラブリイ、良血アドラーブル、タケノベルベットetc。。。

でも、彼女はいつも一生懸命に走っていました。

「 並外れた根性娘 」と言われながら。。。



1991年7月のデビュー3連闘から始まる彼女の1年半の短い競走馬生活。


その年暮れの阪神3歳牝馬ステークス(GI)  2着。

翌年、2月クイーンC(GIII) 1着。

こうしてサンエイサンキューは、1992年の牝馬クラシックロードを進むことになりました。

しかし、

その後の彼女のレースの使われ方は、余りにも過酷でした。

それは彼女が燃え尽きた、4歳の1992年有馬記念のレースまで続きます。

 
クイーンSのあとすぐ

3月の弥生賞への参戦。(6着)

(  * 弥生賞とは牡馬のクラシックレースである皐月賞のトライアルレースの一つ。)



そして4月、いよいよクラシック戦線がスタート。


桜花賞 7着。  

優勝したのは、ニシノフラワー。


5月、オークス。

優勝したアドラーブルにあと半馬身差の惜しい2着。



それからも、

彼女は、放牧に出されることなくずっと、暑い夏の間も走り続けました。


7月 札幌記念(GIII ) 1着。


8月 函館記念(GIII) 8着。


10月4日、サファイヤS(GIII) 1着。


10月25日、 ローズS(GII) たった中2週の短いローテイションでの出走。 2着。

クラシック制覇を狙うためのトライアルレース出走、などというような感じは微塵もありません。



彼女は、本当に疲れきっていました。


そして、主戦ジョッキーだった田原騎手の有名な発言事件。

11月15日開催のエリザベス女王杯(GI)の追い切り後、

田原騎手はサンエイサンキューの明らな状態の悪さ、疲労の重さを感じ取りました。

そして、スポーツ紙の記者たちに向かって、


「 使い詰めで、はっきりと調子が落ちている。 このままだと故障してしまう。

  こんな状態ではG1は勝てない!」

と言ったのです。


これは、彼の正義感からくる、馬主や調教師への抗議だったのでしょう。

しかし、翌日の某スポーツ紙がこの発言を歪めてしまい、

「田原爆弾発言! 2着以上なら坊主になる。 」

と、八百長発言として大きく報道されてしまったのです。



サンキューを取り巻く、調教師、臨時の担当厩務員、競馬をビジネスとしてしか思っていない馬主。

そんな人間の身勝手な思惑のために、サンエイサンキューは

4歳牝馬にとってあまりにも過酷に、休みなく使われ続けたのです。

結果は、

エリザベス女王杯、5着。



そして、サンキューはその後、運命の有馬記念に向かうことになります。

ファンや周囲の批判を受けても、彼女は出走しました。

例えビリであっても、走るだけで、何百万円という出走手当が入る有馬記念の賞金制度のために・・・・・


そして迎えた1992年12月27日の有馬記念。

彼女は走りました。 

本当に一生懸命に。

しかし、運命の中山の最後の直線。


故障発生!


「右前脚手根骨複雑骨折」。


ああ、なんということ・・・・・

とうとう、彼女の脚は悲鳴をあげてしまったのです。

普通なら、その場で予後不良になるほどの重症です。


可哀想なサンエイサンキュー・・・・・

TVを観ていた私は、たまらなかったです。

ぽつんとターフに立ち尽くす、ピンクのメンコの彼女の馬体・・・・・




関係者は彼女を治療する選択をし、

痛みに耐えながらの懸命の闘病生活でした。

蹄葉炎を発症しながら、無事に立ち直って、北海道に旅立ったとき

「 なんとか助かってほしい 」

という思いでいっぱいでした。

そんな彼女の回復を願って、私はパラグアイに赴きしました。

健気な彼女を思って、

「 元気になって、立派なお母さんになってね。 」と、ずっと願っていました。

毎日、ホテルに届くスポーツ新聞を食い入るように読んでいました。

数度の手術を乗り越えて、彼女は元気を取り戻していきました。


当時、元気になった彼女の姿を、日本から定期購読していた「 優駿 」で見ました。

馬房から首を出して、青い服を着ている彼女の姿。

骨折した右前脚は大き膨れ、歪曲して、本当に大変な怪我だったのだなあって

写真を見て、改めて思いました。

良く頑張ったなあって。。。


そして、、、悪夢の有馬記念から1年半が経ち、彼女は4本の脚で立てる所まで回復しました。

しかし、痛みをかばうために、脚を浮かせたままにしていたため、足先が内側に湾曲して固まってしまった。

曲がった脚のままでは繁殖牝馬になれない。

そのため、ひきつれた内側の腱を切断する手術が施されました。

手術は成功し、術後の経過は順調でした。

新聞記事でそれを読んだ私の胸には、

「 なぜ、そこまで回復していた彼女の体を、さらに痛めつけるような手術をするのか。。。大丈夫なのか? 」

という手術の成功という安堵感と不安の入り混じった、複雑な思いが去来しました。



手術から5日後、

1994年10月21日朝6時過ぎ、彼女は突然逝ってしまったのです。

心不全でした。

1年7ヶ月に及ぶ長い長い闘病生活でした。

5 歳。


彼女の小さな心臓は、ずっと走り続けて、そして、とうとう力尽きたのでしょう。


あの田原騎手の「サンエイサンキュー騒動」で、彼女は報道のあるべき姿や、

競走馬の体調を無視した関係者の利益の追求の姿勢について、身をもって訴えようとしていたのでしょうか。。。

でもきっと、彼女はその生真面目な気性から、ただひたすら、与えられた運命に従順に

一生懸命、自らの限界まで生きたのでしょう。


現役時代から休む間もなく、死ぬまで闘い続けさせられたサンエイサンキュー。

せめて天国で、のんびり草を食んでいて欲しいと思います。



ビデオで観る、レースで走るサンエイサンキュー。

ピンク色のメンコから、たてがみをたなびかして走る彼女の姿。

ああ、サンキューの可愛いお母さんになった姿、

本当は、見てみたかったです。



- 「愛された馬は幸福なの!みんなの心に生きてるんだから!!」-



これは、私の愛読書よしだみほさんの連載コミック「馬なり1ハロン劇場」での、劇中のサンエイサンキューの言葉です。

なんだか、ほっと救われた気持ちです。







生産者 寺井牧場
調教師 佐藤勝美(美浦)
主戦騎手 田原成貴
競走成績 17戦5勝
総獲得賞金 2億5895万5000円
主なレース成績
1991年 函館3歳S (GIII ) 2着
1991年 阪神3歳牝馬S (GI) 2着
1992年 クイーンC (GIII) 1着
1992年 弥生賞 (GII ) 6着
1992年 桜花賞 (GI ) 7着
1992年 優駿牝馬[オークス] (GI) 2着
1992年 札幌記念(GIII) 1着
1992年 サファイヤS (GIII ) 1着
1992年 ローズS ( GII ) 2着
1992年 エリザベス女王杯 (GI ) 5着
1992年 有馬記念 ( GI ) 中止

1994年10月21日没



   
1992年 優駿牝馬( オークス ) 2着 のサンエイサンキュー(ゼッケン5番)
       トレードマークのピンクのメンコが少しのぞいています。




札幌記念の記念テレカ





「 遥か群集を離れて 」の小林秀行氏から

お借りした、サンエイサンキューの
イラストです。

ちょっと優しげな面持ちの彼女ですね。

お母さんになったら、
こんな穏やかな顔をしていたのかな。。。
ふとそう思いますね。






( 2004年8月11日記 ) 
* 2009年6月4日再編集
       






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